生産性とは、投入(インプット)に対して得られる効果(アウトプット)を言います。つまり、
生産性=効果/投入
です。よって、何を効果(アウトプット)とし、何を投入(インプット)とするかによって、いろいろな生産性が考えられます。代表的な生産性は、アウトプットを付加価値とし、インプットを従業員数とする生産性です。つまり、
生産性=付加価値/従業員数
です。これを労働生産性と言います。従業員1人当たりの付加価値です。企業はこの労働生産性を高くするために、できるだけ少ない従業員数で、できるだけ多くの付加価値を生み出そうとしているのです。
また、インプットを従業員数ではなく、全従業員の労働時間とする場合もあります。つまり、生産性を1時間当たりの付加価値とするのです。
生産性=付加価値/全従業員の労働時間
です。
では、付加価値とは何でしょうか。付加価値とは、
付加価値=売上-外部支払(購入)費用・・・・・・減算法
又は、
付加価値=営業利益+人件費+減価償却費・・・・・・加算法
です。減算法の計算式を変形すると、売上=外部支払費用+付加価値、となりますから、付加価値とは、文字どおり、企業が新たに付加した価値のことです。つまり、付加価値とは企業の稼ぎです。ですから、企業にとって最も重要な数値となるのです。
主な外部支払費用は、メーカーでは材料費と外注加工賃、流通(卸、小売り)業では仕入費用です。これらの外部支払費用を売上から引けば企業の稼ぎになります。この稼ぎが付加価値なのです。したがって、従業員1人当たりの付加価値、すなわち、労働生産性を高めることは企業にとって最も重要です。
ちなみに、労働生産性は従業員の給料を決める時に最も重視される数値です。
ところで、上記の付加価値の計算式は概算ですが、実務上は上記の計算式で良いと思います。また、付加価値の計算式は考え方によって異なります。考え方の違いで良く知られているものには、日銀方式と中小企業庁方式とがあります。
例えば、日銀方式では、人件費、又は従業員数に経営者は含まれませんが、中小企業庁方式では経営者も含まれます。通常、大企業は日銀方式を用い、中小企業は中小企業庁方式を用いています。
なお、多くの企業では、付加価値のことを単に価値と呼ぶことが多いです。その理由は、上記の計算式でお分かりのように、付加価値は会社全体の価値なので、個々の作業や業務の付加価値を計算することはできないからです。
よって、売上や利益を増やす作業や業務は価値があり、そうでない場合は価値がないと判断します。これは付加価値の向上を目的とするIE(インダストリアル・エンジニアリング:管理工学)の基本的考え方であり、本稿においても同じ考え方を用いています。
「日本の生産性は欧米より低い」ということを筆者は学生時代(50年前)に学びましたが、未だに低いのはなぜでしょうか。筆者が学生のころは、高度経済成長時代で、「欧米に追い付け、追い越せ」の時代でしたから、日本の生産性が欧米に比較して低いのは理解できるのですが、現在に至っても低いのはなぜでしょうか。
その理由として、「製造業の生産性は高くなったけれども、非製造業が低いままだから、日本全体では低くなってしまう」という意見があります。実際に、調査した結果、そうなのだそうです。
そして、非製造業が低い理由として、流通(卸・小売り)業やサービス業は、昔から「おもてなし」の精神で仕事をしているから、というのです。つまり、「おもてなし」のために人や時間が多く必要なのだから、生産性が低くても仕方ないという意見です。ちなみに、これはNHKの意見です。TVでこのように説明していました。
一理はあると思います。しかし、筆者はもっと根本的な原因があると思います。なぜなら、製造業の生産性が高いのは生産現場(ブルーカラー)だけで、経営管理部門(ホワイトカラー)の生産性は低いからです。
ちなみに、生産現場の生産性が高いのは、創意工夫を徹底的に行っているからです。改善(KAIZEN)が世界に知られるようになったのは、日本の生産現場において改善を徹底的に行っているからであり、IE(管理工学)を徹底的に活用しているからなのです。
では、日本の生産性が欧米に比較して低いのはなぜでしょうか。それは、集団主義が主な原因だと思います。その理由をこれから具体的に説明しようと思いますが、その前に、集団主義とは何かについて説明しておきます。
集団主義とは、簡単に言えば、「個人より集団の方が重要で、集団の決定が個人の都合に優先する」という考え方です。一方、個人主義とは、「集団の決定より個人の都合を優先し、個人の意見を尊重する」という考え方です。なお、欧米では個人主義です。
以前から、日本的経営の特徴と言われているのは、集団主義、企業別労働組合、終身雇用制度、年功序列制度などです。これらのうち、企業別労働組合、終身雇用制度、年功序列制度などは中堅・中小企業では年々減少し、現在では主に大企業に残っている状況です。
しかし、集団主義は現在でも多くの企業に根強く残っています。そして、生産性に最も影響するのが集団主義です。集団主義は、日本の企業風土(企業文化)となっていますが、日本の国の文化でもあります。
日本的経営の特徴について最初に指摘したのは、エズラ・F・ヴォ―ゲル氏で、1979年に出版した、『ジャパンアズナンバーワン』に書かれています。エズラ・F・ヴォ―ゲル氏はこの著書の中で、日本の集団主義について次のように書いています。
「国際的な尺度からいえば、現代日本の大企業は組織として成功している。その成功の原因は、日本民族の中に流れている神秘的な集団的忠誠心などによるのではなく、この組織が個人に帰属意識と自尊心を与え、働く人々に、自分の将来は企業が成功することによってこそ保障されるという自覚を与えているからである」と。
つまり、「自分の将来は企業が成功することによってこそ保障される」という自覚を企業が個人に与えているので、個人より企業を優先するのです。これが、日本的経営における集団主義です。
この著書を契機に、日本だけでなく、欧米でも多くの学者や研究者が日本的経営について研究し、一時、日本的経営に関する研究ブームが起こりました。つまり、「なぜ、日本の企業は世界でナンバーワンなのか」についての研究です。そして、日本的経営に関する多くの本が出版されました。
現在でも、日本の企業では集団主義に基づく慣習が多く見られます。例えば、入社式を行い、みんなで社歌を歌います。スポーツの企業対抗試合などがあれば、社員全員で応援します。みんなで社員旅行に行くこともあります。会社に対する忠誠心、団結心、貢献意欲などを高めるためです。
また、「ノー残業デイ」を決めて、みんなで実行します。何か重大な事に当たる時には、「全社一丸となって」みんなで取り組みます。さらに、社員の能力に大きな差があっても給料には差をつけません。年功序列制だからです。若い時には能力があっても安い給料しかもらえず、年を取れば能力がなくても高い給料がもらえる制度なのです。
また、日本の多くの企業では、集団による意思決定、及び集団による実行を行っています。何でもみんなで決め、みんなで実行します。よって、会議や打ち合わせが非常に多くなります。社長と言えども、1人で意思決定することはありません。よって、トップダウンではなく、ボトムアップ、あるいはミドルアップになります。
みんなで決めて、みんなで実行するので、たとえ決定や実行が間違っていても誰の責任にもなりません。「みんなで決めれば怖くない、みんなで実行すれば誰の責任にもならない」のです。
集団主義は主に稲作によって培われました。米を作るには、春に田に水を入れて田植えをし、秋に水を抜いて稲刈りをします。田の水を管理するには、村の人たちが協力して行わなければなりません。みんなで話し合って、いつ田に水を入れるか、また、いつ水を抜くかを決めます。
多くの田に上流から順に水を入れ、また、順に水を抜きます。自分の家の田だけ水を入れたり、水を抜いたりすることは絶対にできません。上流から順番に行います。よって、村の決定は各家の都合に優先します。
また、田植えと稲刈りの時には多くの労働を必要とします。このため、家族全員で一斉に働かなければなりません。よって、田植えや稲刈りをいつ行うかが決まったら、誰もがそれに従わなければなりません。つまり、常に、村や家の決定が個人の都合に優先するのです。
日本人にとって米は主食ですから、米を作ることは生きるために何より大切なことです。よって、村や家の決定が個人の都合より優先するのです。つまり、「集団の決定が個人の都合より常に優先する」のです。これが集団主義であり、日本に稲作が始まって以来培われた日本の文化なのです。
ちなみに、江戸時代の農業人口は国民全体の80%以上にも達しており、農業が産業全体の大部分を占めていたのです。また、当時は米は貨幣と同様に扱われました。米の収量(石高)でその地域の経済力が測られ、また家の所得が決まったのです。
日常生活でも米が貨幣の代わりに使われました。筆者が子供の頃でも、農家では医者への支払いに米を使うことがありました。よって、稲作は日本にとって最も重要な産業だったのです。
さて、集団の決定が個人の都合に優先するのは、稲作の影響だけではありません。儒教の影響もあります。儒教の教えは、一言でいえば、仁義と道徳を重視することです。例えば、主君に尽くす忠義、先祖や親を大切にする孝行などがあります。つまり、村長や家長の言うことには従い、先祖や親、年寄りなどを大切にします。
先祖のおかげで農家では田畑を所有しているのであり、食料が確保できるのです。また、親や年寄りのおかげで日々の生活が問題なく過ごせるのです。その結果、親や年寄りは尊敬され、多くの人は親や年寄りの言うことには従います。こうして、個人は日常生活においても村長や家長、親や年寄りの言うことには従うようになります。
逆に、個人の勝手な行動は絶対に許されません。個人が村の決定に従わずに行動すれば、村八分にされて村から追い出されます。また、家の決定に従わなければ、勘当されて家から追い出されるのです。
そうなれば、まともに生きていくことができません。なぜなら、村や家を出て他の土地に行っても、よそ者は相手にされないからです。身元保証人がいなければ、よその土地では働くことができません。よって、村八分にされたり、勘当されたりした人はまともに働くことができません。要するに、食べ物を得ることができなくなるのです。
以上のように、稲作、及び儒教によって日本人に培われた集団主義が現代でもそのまま残り、国の文化となり、また、企業の文化ともなっているのです。ちなみに、個人の能力よりも年功を重視するのは儒教の影響です。
なお、現在でも日本の企業に就職する時には必ず身元保証人が必要です。しかし、欧米の企業では身元保証人は必要ありません。必要なのは個人の能力です。
ちなみに、儒教の思想は、利潤を追求する資本主義の精神とは相いれないのです。この点について、渋沢栄一は『論語と算盤』で儒教の思想と利潤の追求について書いています。
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