読者の皆さんはアメリカの西部劇を見たことがあると思います。コルト社が開発した6連発の拳銃やウインチェスター社が開発したライフル銃などがたくさん使われています。また、南北戦争では多くの軍用小銃や軍用拳銃が使われました。これらの銃はすべて大量生産体制で作られました。一丁ずつ手作りで作られたわけではありません。
何が言いたいのかと申しますと、大量生産体制の創始者はフォードではないということです。なぜなら、フォードが大量生産体制で自動車(T型車)を初めて生産したのは1905年ですが、南北戦争はそれ以前の1851年から1855年であり、西部開拓の時代はそれよりもさらに前の時代だからです。
西部開拓の時代は1849年に終了しています。1848年にカリフォルニアで金鉱が発見され、多くの人たちが金鉱を掘るためにカリフォルニアに押し寄せたためです。
しかも、西部開拓の時代には、銃だけでなく、既に、日常使ういろいろな製品が大量生産体制で作られ、シアーズ・ローバック社の通信販売によって、アメリカ全土に点在する人たちに販売されていました。
例えば、シンガー社のミシン、ブラザー社のタイプライター、ウォルサム社の時計、マコーミック社の農業機械などです。このことも、西部劇を見れば分かります。いろいろな場面でこれらの製品が出てくるからです。また、「シェーン」でも、「大草原の小さな家」でも通信販売用の分厚いカタログが場面に出てきます。
日本の歴史の教科書には大量生産体制の創始者はフォードだと書いてありますが、これは間違いだということが分かると思います。教科書を信用してはいけません。
さて、多量生産と大量生産とは異なります。多量生産の反意語は少量生産ですが、大量生産の反意語は小量生産ではありません。個別生産(手作り)です。多量生産は単に量が多い生産という意味ですが、大量生産はマスプロダクションを翻訳したもので、大衆(マス)向けの生産という意味です。よって、「大衆向け生産」と訳したほうが良かったのではないかと思います。
マスプロダクションという言葉は、1925年にフォード社のスポークスマンがその生産方法について原稿を書き、その原稿を基に百科事典ブリタニカに掲載する際に、ブリタニカの編集者が使ったのが最初らしいです。
個別生産(手作り)であっても職人を増やせば多量生産はできますが、大量生産はできません。なぜなら、大量生産は仕組み(システム)であり、大量生産体制(マスプロダクションシステム)と呼ばれるものだからです。フォード社では大量生産とは移動組立ライン(ベルトコンベア)方式の生産であると先ほどの原稿に書いています。これは後に、ベルトコンベアシステムと呼ばれました。
確かに、ベルトコンベアシステムによって部品を運搬しながら組み立てれば、運搬時間が短縮でき短時間に大量に生産できるようになります。しかし、肝心の加工方法が個別生産(手作り)のままでは短時間で生産することはできませんし、ベルトコンベアシステムも不可能ですので大量生産はできません。なぜなら、手作りというのは1つずつ鍛冶屋が金槌で叩いたり、ヤスリで削ったりしながら作ることだからです。
実は、移動組立ライン(ベルトコンベア)システムもフォード社で考えたものではありません。ベルトコンベアシステムによって自動車を初めて作ったのはオールズ社です。フォード社の技術者がオールズ社の生産ラインを見学し、それをマネしたのです。よって、フォード社はベルトコンベアシステムの創始者ではありません。
ちなみに、オールズ社はベルトコンベアシステムによって自動車の価格を3分の1にまで下げました。しかし、これがかえって顧客の反感を買って業績が悪化し、後にGM社に買収されてしまったのです。なぜかと言いますと、オールズ社は富裕層に超高級の車を製造・販売していたからです。現在の貨幣価値で言うとおそらく6千万円ぐらいの車だと思います。つまり、現在のロールスロイスのような高級車を製造販売していたのです。
6千万円の車が2千万円で買えるようになると、富裕層は買わなくなったのです。なぜなら、富裕層が車を所有するのは移動手段としてではなく、ステイタスシンボルとしてだからです。では、中流層なら2千万円の車を買えるでしょうか。2千万円では高すぎで買えません。結局、価格を3分の1にまで下げたにもかかわらず、全く売れなくなってしまったのです。
では、フォード社は何をしたのでしょうか。フォード社の業績は、「消費者には低価格の製品を、労働者には高賃金・短時間労働を、企業には高利潤を実現しよう」という、いわゆるフォーディズムと呼ばれるものを実現したことにあります。フォード社はこのフォーディズムを実現するために、既に完成していた大量生産体制を徹底的に活用したのです。つまり、大衆向けの車を数百万円で製造販売したのです。
さて、短時間で加工するためにはどうすれば良いでしょうか、それは、まず、手作りではなく機械加工にすることです。そうすれば短時間で加工ができます。その際に、同じ部品ならどれも同じ寸法・精度で加工すれば組立時間も短縮できます。さらに、加工・組立工程を分割して手分けして行えば分業の効果がでますので、よりいっそう短時間で加工・組立ができます。つまり、アダム・スミスの国富論に書かれている分業による効果です。
手作りの場合には通常、すべての加工・組立工程を1人の職人が行います。1つの部品を作るために材料をカットし、叩いたり、ヤスリ掛けしたりして加工します。次に、その部品と組み合わせる他の部品を同じように加工して組み立て、さらにそれらと組み合わせる他の部品を加工して組み立てる、という具合に順に加工と組立を交互に行って作っていくわけです。よって、時間がかかります。
当時はまだ機械では精密加工ができなかったので、当然、手作りになります。また、仮に、同じ部品をいくつか予めまとめて作っておいてから製品を組み立てる場合であっても、同じ部品なのに寸法や精度が1つ1つ異なるので、組立の都度、叩いたりヤスリで削ったりしながらすり合わせしなければならないので時間がかかるわけです。
同じ部品を同じ寸法・精度で加工することができれば、短時間で組立ができます。しかし、それだけでなく、もう1つ重要なメリットがあります。それは、部品を簡単に交換することができることです。よって、当初はこの方法は部品互換制(インター・チェンジャブル・パーツ・システム)による生産と呼ばれており、後にアメリカン・システムと呼ばれるようになりました。そして、この部品互換制が大量生産体制の基となったのです。
ここで、部品互換制のメリットについて分かりやすく説明します。同じ種類の銃が3丁あったとします。そのうち、1つは引き金が故障し、2つ目は撃鉄が故障し、3つ目は銃身が故障したとすると、これらの銃が手作りであったならば、3丁とも使えなくなります。しかし、もしどの銃の部品も同じ寸法・精度で作られていたとしたら、3丁のうちどれか1丁の銃を分解して、その部品を使って他の2丁の銃をその場で部品交換して使えるようにすることができます。
この部品互換制による大量生産にアメリカで最初に取り組んだ人がイーライ・ホイットニーなのです。完成したのが、1805年ごろであり、フォードがベルトコンベアシステムを完成した1905年の約100年前です。
実は、部品互換制による銃は、アメリカで作られる以前に、フランスでも作られました。しかし、フランスで作られた部品互換制による銃は機械加工によるものではなく、従来の手作りのままで部品の互換制を高めようとしたものなのです。なぜなら、フランスでは部品交換による銃の迅速な修理が目的であり、大量生産が目的ではなかったからです。
と言うのも、歴史で習ったと思いますが、産業革命の頃から、イギリスやフランスでは機械に対する熟練工の抵抗があって、機械打ちこわし運動などが起こりました。このために、機械の改良ができず大量生産体制は実現しなかったのです。
部品互換制による大量生産は短時間に大量の製品を作ることができるだけでなく、迅速な修理ができることが大きなメリットなのです。この特徴は特に戦場においてその真価を発揮しました。
当時、1800年ごろ、アメリカはイギリスと戦争状態にありました。しかし、アメリカには、戦争に必要な銃が圧倒的に少なかったのです。なぜなら、アメリカを建国した人たちは生活に必要な最小限の荷物を持ってヨーロッパから移住してきたからです。よって、軍用小銃(マスケット銃)の多量生産が急務だったのです。このため、アメリカ政府は大きな工場を3つ作ってアメリカ全土から鍛冶屋を集め、銃の多量生産に取り組みました。
しかし、3年たっても、戦争をするために必要な生産量は確保できず、イギリスと比較すると圧倒的に銃が少なかったのです。そこで、政府は、短期間で多量に銃を作る方法を、当時、発明家として知られていたイーライ・ホイットニーに依頼したのです。
イーライ・ホイットニーは政府から資金の提供を受けて依頼されました。よって、アメリカで最初に軍用小銃(マスケット銃)の大量生産に取り組んだ人がイーライ・ホイットニーなのです。また、6連発拳銃の開発者として知られていたサミュエル・コルトやライフル銃の開発で知られていたウインチェスターなどの銃器製造業者もマスケット銃の大量生産に取り組みました。
イーライ・ホイットニーは、部品互換性を確立するために、部品の寸法精度を正確に測定する測定器パスの発明や平面削りの精度を高めるフライス盤の改良なども行いました。
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