イーライ・ホイットニーは1765年12月8日、ボストン近郊のウエストボロー(マサチューセッツ州)で4人兄弟の長男として生まれました。イーライの父は農業を営むかたわら、当時のニューイングランド地域の多くの農家がそうであったように、兼業として自宅に小さな工場を持ち、馬車の車輪やイスを作っていました。このため工場には木工旋盤をはじめいろいろな道具がありました。
イーライの妹のエリザベスの話によると、イーライは子供のころから工場に入り浸っており、いろいろな道具を使っていつも何かを作っていたそうです。イーライは農業はあまり好きではなかったようです。
イーライが子供のころ病弱だった母がなくなり家には家政婦がいました。あるとき父が、2、3日出かけて、家に帰ったときに、家政婦に子供達は何をしていたかと聞いたところ、「イーライはフィドルを作っていました」と答えたそうです。父はこれを聞いて、「イーライはフィドルに取り付かれてしまったのだろう」と答えたそうです。
しかし、このフィドルを多くの人たちに見てもらったところ、子供が作った割には非常に優れたものであると評価されたということです。このときイーライは12歳でした。ちなみにフィドルというのはバイオリンの原型で、テレビ映画「大草原の小さな家」でも父親が自分で作ったフィドルを時々演奏しています。
この時から、イーライはフィドルの修理の仕事をするようになり、いつも顧客に満足される良い仕事をするだけでなく、ときにはその仕事ぶりに顧客が驚いたほどであったそうです。
さて、イーライの父は良い時計を持っており、イーライはその時計の構造を調べてみたかったのですが、父はそれを許さなかったのです。ある日曜日の朝、父がその時計を家に置いて教会に出かけるのを見て、イーライはとっさに病気のふりをして教会には行けないと嘘をついたのです。家族全員が教会に出かけるとすぐに、急いで時計のある部屋に行き、時計を手に取り、バラバラに分解しました。
そのときイーライはあまりにも嬉しかったので、自分の行為の結果がどういうことになるかについては考えもしなかったそうです。というのも、父は厳格な人だったので、このことを知ったら、イーライは罰せられるに違いなかったからです。しかしながら、イーライはバラバラにした時計をすべてきちんと組立て、元のところに置いておいたのです。しかも、このことは数年後にイーライが直接父に話すまで、父は気づかなかったということです。
父が再婚したとき、イーライは13歳でした。継母は見事なテーブルナイフのセットを持っていて大事にしていたが、イーライはそれを見て、「もし、道具があれば僕はそれと同じものを作ることができる。その道具も自分で作ることができる」と言ったそうです。継母はイーライが自分を馬鹿にしていると思い、非常に不愉快な思いをしたそうです。
しかし、まもなくそのセットのうちの1つが壊れてしまったので、イーライは全く同じものを作ったのです。しかし、そのナイフの刃に付いていた刻印だけは同じにはできなかったそうです。その後、同じナイフを作って販売することにしました。そのナイフは実際に同じように使えたし、これほど安くて良いものはなかったということです。
イーライが15歳のときに、イーライは父に新しい事業を行うよう熱心に勧めたそうです。当時はアメリカ独立革命のために釘に対する需要が非常に大きく、しかも高価でした。当時、釘は手作りで作られていましたが、作り手である鍛冶屋が不足していたのです。イーライは父に炉などの設備を購入し家内工業として鍛冶屋を立ち上げるように提案したのです。父はこの提案を承諾し、イーライはこの事業を父と一緒に着実に実行しました。
イーライは彼自身が使う道具も作り、ナイフの刃に刻印したり、釘の製造をしたりするだけでなく多くの他の製品も作りました。イーライは地域の大人の技術者よりも優れた技術者であったということです。イーライは1人でいろいろな製品を作り多くの利益を得ました。
非常に忙しかったので、イーライは人を雇って事業を拡大する計画を立てました。その計画を妹に話したが、父には話さなかったそうです。反対されるのを恐れたからです。あるとき父に隣町に行きたいので馬を貸して欲しいと言い、馬に乗って人を探しに出かけました。
簡単には見つからなかったので、忍耐強く3日間、町から町へと探し回ってようやく家から40マイルも離れたところでイーライの望む人を見つけました。また、この旅でイーライは技術を磨くこともできました。というのも旅の途中で多くの工場を尋ね、機械技術に関する情報を拾い集めたからです。
独立戦争が終わり釘の需要が減り釘ビジネスは儲からなくなりました。そのころ、婦人がボンネット帽子を長いピンで止めることが流行したため、その止めピンを製造販売することにしました。ちなみに、このピンの製造が後に発明した綿繰り器の歯の製造に役立ったということです。
イーライは持ち前の器用さで工夫を凝らし、止めピンの製造・販売の事業をほとんど独占することができたそうです。また、このビジネスに加えて歩行用の杖も作って販売しました。このように、イーライは人の役に立ついろいろなものを製造・販売したのです。
イーライが住んでいたウエストボローは冬は寒く雪に覆われ農業ができなかったため、イーライは夏は主に農業に従事し、冬は家内工業に従事しました。以上のようにイーライはまだ少年だったころから事業を行い、事業に必要な情報を得たり、数学や機械技術などを習得したりしていたのです。しかも彼は学校には行っていなかったので、すべて独学だったのです。
妹のエリザベスの話によると、小さいころから母親の持っていた算数の本をぶつぶつ言いながら読んでいたということです。読み書きについては地域の子供と同じ程度であったが、数学や機械技術については優れていたようです。
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