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開発&コンサルティング

第16回 大量生産体制はフォードが考えたのではない

アメリカの西部劇を見ていると、アメリカの歴史を目の当たりにすることが出来ます。西部劇で武器といえば拳銃やライフル銃です。当時すでに大量に作られて広く出回っておりました。実に、人口の約6倍の数の銃が作られていたそうです。さて、ではこの大量の拳銃やライフル銃はどのようにして作られたのだと思いますか。1つ1つ鍛冶屋によって手作りで作られたのでしょうか、それとも大量生産体制によって作られたのでしょうか。もちろん、大量生産体制によって作られたのです。

当時、コルト社の拳銃の弾丸とウインチェスター社のライフル銃の弾丸は共通に使えたようですから、すでに業界標準(デファクト・スタンダード)が出来ていたのです。西部劇の時代、すなわち西部開拓時代は1849年に終了しています。前年の1848年にカリフォルニアで金鉱が発見されて、大勢の人がカリフォルニアに押し寄せたためです。

ところで、フォード社が最初に大量生産体制によって自動車を生産したのが1905年ですから、西部開拓時代はそれよりずっと前の時代なのです。よって、歴史の教科書に「大量生産体制はフォードが最初に考えた、とか、フォードが創造した」などと書いてあってもそれは間違いです。教科書を信用してはいけません。しかも、未だに修正していないのですから、未だに多くに人に間違ったことを教えているのです。

では、そもそも大量生産体制とはいったい何でしょうか。大量生産体制とは単に大量に生産することではなく、システムすなわち「仕組み」なのです。大量生産体制と言えば、まず考えられるのがベルトコンベアシステムです。ベルトコンベアを使って最初に自動車を生産したのはランサム・E・オールズと言う人です。つまり、自動車会社オールズ社の社長です。

ですから、実際には、フォード社はオールズ社のマネをしたのです。フォードが最初ではありません。フォード社の技術者がオールズ社を見学してマネをしたそうです。オールズ社では食肉業者が牛を解体して部位ごとに肉を分割する作業にベルトコンベアを使っているのを見て、自動車の組み立てにベルトコンベアを取り入れたそうです。オールズ社ではベルトコンベアシステムによって自動車の製造コストを約1/3にまで下げたのですが、それが逆効果となり、自動車が売れなくなって、倒産してしまったのです。

なぜ、逆効果となったかと言いますと、オールズ社では富裕層をターゲットとして自動車を作っていたからです。現在の貨幣価値で言えば6,000万円ぐらいの価格の自動車です。それを2,000万円ぐらいの価格に引き下げたのです。すると、富裕層のステイタスシンボルとしての自動車の価値がなくなって売れなくなってしまったのです。つまり、富裕層は自動車を使用するために購入するのではなく、所有するために購入したのです。つまり、所有すること自体に価値があったのです。ちなみに、フォード社では大衆向けの自動車を製造し、徹底的にコスト削減し、驚くほど安い価格で販売したために、大量に売れたのです。

後に、オールズ社はGM社に吸収され、GM社でオールズモデルと言われる高級自動車を作りました。オールズ社の自動車工場では、組み立てラインを最初はトロッコのような台車をつなげて、人が手で押して動かしていたのです。フォードでも最初はこのようにしていました。この時の様子はチャップリンの映画、「モダンタイムズ」で見ることが出来ます。

さて、ベルトコンベアを使って部品を運搬し、組み立てのスピードを上げるためには、部品が規格化・標準化されていなければなりません。1つ1つの部品を手作りで作っていたのでは、寸法精度は一定になりませんから、組み立ては出来ません。組み立てするにはすべての部品の規格化・標準化が必要なのです。現代では当たり前のことですが、一定の寸法精度に加工できる工作機械がなかった当時では不可能なことです。

大量生産体制というのは同じ寸法精度で加工された部品がなければ出来ないのです。どの部品も同じ寸法精度で作れば、組み立てが早くできるし、部品交換も簡単に出来ます。したがって、当時、これは互換部品システム( Inter-Changeable-Parts System)と呼ばれておりました。大量生産体制というのは互換部品システムがあって始めて可能なのです。では、部品互換システムはいったい誰が考えたのでしょうか。部品互換システムを考え出したのはイーライ・ホイットニーという人でフォードより約100年前、1800年頃のことです。

では、どのようにしてイーライ・ホイットニーは互換部品システムを考え出したのでしょうか。当時アメリカは1776年に独立宣言をしたものの、まだイギリスと戦争状態にありました。実際に、1812年には米英戦争が起きています。ところが、戦争に必要な大量の武器がアメリカにはありませんでした。なぜなら、当時、アメリカ人の多くはヨーロッパから着の身着のまま移住してきたからです。そこで、アメリカ政府は官営の大きな銃器工場を3つ建てて増産したのですがとても間に合いません。

なにしろ、部品を1つ1つ鍛冶職人が叩いたり、ヤスリがけしたりして作るのですから。そこで、民間にも請け負わせることにしたのです。これに応じた一人がイーライ・ホイットニーです。彼は発明家です。彼は綿繰器の発明によってアメリカ経済に多大な影響をもたらした人物です。しかし、銃の作り方は全く知りませんでした。それでも、アメリカ政府は彼の能力を信頼していましたし、彼の計画はすばらしいものだったので彼に請け負わせることにしたのです。

官営の銃器工場では3年でたった1,000丁の銃しか生産出来なかったのですが、彼の計画では2年で10,000丁から15,000丁の銃を生産する計画だったのです。ところが、実際には、当初の予定の2年が過ぎても、なんと一丁も出来ませんでした。彼は、部品互換システムを完成させるために必要な工作機械や測定器、治具などを作ることから始めたのですから無理もありません。

当時、旋盤と中繰り盤はすでにあったので、銃身は機械加工できたのですが、重要な機関部(撃鉄や引き金)は機械加工ができなかったのです。そこで彼は精度が高い平面削りの出来る工作機械を作ったのです。すなわち、フライス盤を改良して精度の高いフライス工作ができるようにしたのです。また、精度の高い測定器であるノギスも作りました。

しかし、その後悪いことが重なりました。資金不足に加え、疫病の発生、近年にない長く寒い冬のため多くの人が死んで労働者が不足し、材料も不足し、さらに工場が大雪でつぶれてしまい、全く生産出来ない状態になってしまったのです。その後、追加資金を得て、数年後にようやく五百丁の銃が完成しました。

イーライ・ホイットニーは合衆国大統領トマス・ジェファソンの目の前で百丁の銃をバラバラに分解し、次に手当たり次第に部品を取って、また百丁の銃を組み立てたのです。これを見た大統領は驚き、その結果、大統領の強力な支持を得ることが出来ました。そのおかげで急速に大量の銃が作られるようになり、そして、フランスの支援もあってアメリカはイギリスとの戦争に勝つ事が出来たのです。

当時のイギリスやフランスの銃は手作りであったため頻繁に故障をし、その都度本国から取り寄せなければならなかったのです。しかし、イーライ・ホイットニーが作った銃は故障することなく、しかも故障した時でも部品を交換すればよかったので、戦場でも簡単に修理出来たのです。

イーライ・ホイットニーが作った銃はマスケット銃という軍用小銃ですが、その後この部品互換システムによる大量生産体制は民間のスミス&ウエッセン社、レミントン社、コルト社、ウインチェスター社等の銃器製造業者に伝えられただけでなく、シンガー社のミシン、ウォルサム社の時計、マコーミック社の農業機械等にも応用され、アメリカの本格的な工業化が進展していったのです。

その数十年後イギリスが自国の工業製品の素晴らしさを世界にアピールするために行なった第一回世界工業博覧会(1851年)において、アメリカが出品した互換部品システムによって作られたいろいろな製品は、世界の人たちを驚かせ、世界一の工業国はイギリスではなくアメリカであることを知らしめたのでした。その後、この部品互換システムはヨーロッパではアメリカンシステムと呼ばれるようになりました。その約50年後の1905年にフォード社がモデルTをベルトコンベアシステムによって生産したのです。

フォード社は近くの鉱山から鉄鉱石を運び、それを製鉄所で溶かして鉄を作り、工場で部品を作り、組み立てて自動車にするまですべての工程をベルトコンベアで結んだのです。そのうえ、鉄鉱石から自動車ができるまで実にたったの1日(24時間)でやってのけたのです。こんなこと現在の企業でもできることではありません。しかし、このような華々しいフォード社のベルトコンベアシステムもその本質を考えて見れば、運搬の自働化にすぎませんから、全く付加価値を生んでいないのです。部品互換システムこそが付加価値を生むシステムなのです。

では、フォード社は何をしたのかと言いますと、アメリカの経営史家は「実際のところフォード社は、一般に彼が考え出したとされているものを、何も作り出しはしなかった」と本に書いています。また、アメリカの高校の歴史の教科書には、「フォード社は何もしなかった」とはっきりと書かれているらしいです。しかし、だからと言ってフォード社は何もしなかったわけではないと思います。

私はフォード社は生産よりむしろマーケティングに大きな革新をもたらしたのだと考えております。何しろ当時非常に高価で一部の金持ちにしか買えなかった自動車を誰もが買えるような大衆の乗り物にしたからです。つまり、潜在需要を掘り起こし、その需要を満たすためにベルトコンベアによる大量生産体制を利用したのです。

実はオールズ社も同じことを考えたのですが、2000万円では富裕層には安すぎて一般大衆には高価だったのです。フォード社のモデルTの価格は現在の貨幣価値で数百万円だったということで、一般大衆にも何とか買える価格だったのです。やはり、フォードの先見の明ということでしょう。つまり、大量生産は当然大量販売が前提でなければならないということです。

フォードが行った革新のもう1つとして、私は、社会システムとも呼ぶべきフォーディズム(フォード主義)を作り出したことを評価したいと思います。それは、「消費者には安い製品を、労働者には高い給料を、そして会社には高い利益を」というシステムです。これをベルトコンベアによる大量生産体制を利用することによって成し遂げたのです。

ところで、大量生産体制(マス・プロダクション・システム)という言葉を作ったのは、フォードではなくて、百科事典のブリタニカの編集者だそうです。また、マス・プロダクション(大衆向け生産)が、なぜ、日本語では大量生産になってしまったのかは私には分かりません。

最近、多品種少量生産が増えてきたため、大量生産体制が崩れてきて、一部では個別受注生産の方が効率的に生産できるようになりました。先日も日経新聞に大量生産とカスタム(受注)生産とを同時に実現する概念としてマス・カスタマイゼーションという言葉が紹介されておりました。これを超生産体制として今後の検討課題であるとしています。

大量生産と個別受注生産の両立を考える場合に、一度その原点に返って考えてみてはいかがでしょうか。そこにはきっと歴史の短いアメリカの文明と歴史の長いヨーロッパの文明との違いが見えてくると思います。現在でもヨーロッパでは大量生産体制によって作られた製品を嫌い、手作りで作られた製品を大事にしています。また、手作り職人を大事にしています。

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